なぜ「守り」は評価されないのか
多くのエンジニアが深夜の障害対応や、終わりの見えない脆弱性パッチ適用に追われながら、ふと虚無感に襲われる瞬間があるはずだ。「これだけ必死に守っているのに、なぜ経営層はセキュリティ投資を渋るのか?」。この問いに対する答えは、我々エンジニアが陥りがちな『コストセンターの罠』に隠されている。サイバーセキュリティクラウドの川崎雄太氏がProduct Engineering Conference 2026で提示したこのテーマは、まさに現代のSREやセキュリティ組織が直面する最も痛烈な課題を突いている。
現場のエンジニアは「インシデントがなかったこと」を成果だと信じている。しかし、経営層から見れば、それは「何も起きていない=何もしていない」と同義だ。この認識のギャップこそが、予算獲得のデッドロックを生む。我々が「可用性99.9%を維持した」と報告しても、経営層には「で、それが売上にどう貢献するの?」という問いが返ってくる。この『言語の断絶』を放置したまま、技術的な正当性だけを主張し続けるのは、無限ループに陥るスパゲッティコードを修正しようとするようなものだ。守りの組織が評価されないのは、彼らが「回避した損失」を可視化できず、経営の言葉で語ることを放棄しているからに他ならない。
川崎氏が指摘する通り、守りの組織が陥る悪循環は深刻だ。評価されないから投資が減り、守りが弱まり、信頼が低下し、事故が起きる。この負のループを断ち切るには、守りの役割を「コストセンター」から「事業成長のエンジン」へと再定義するしかない。具体的には、守りの指標を経営指標に翻訳するプロセスが不可欠だ。例えば、SLO(Service Level Objective)のエラーバジェットを「可用性の数値」として報告するのではなく、「あとどれだけ攻めたリリースができるか」というビジネスのアクセル指標として提示する。この転換こそが、守りの組織が経営のテーブルに座るための唯一のチケットとなるのである。
経営を動かす「翻訳」の型と優先順位
では、具体的にどう翻訳すれば経営層は動くのか。川崎氏が提示した「翻訳の対訳表」は、明日からでも現場で使える極めて実践的な処方箋だ。例えば、脆弱性対応を「パッチを適用した件数」と報告するのではなく、「漏えい時に発生しうる損失額を回避した」と語る。監査対応を「指摘への対応」ではなく、「大型案件の受注要件を維持するための投資」と位置づける。この言語変換を行うだけで、守りの活動は「コスト」から「リスク管理」という名の「投資」へと変貌を遂げる。
さらに重要なのは、限られたリソースをどこに投下するかという優先順位の設計だ。SRE、セキュリティ、情シスという3つの領域は、それぞれ専門性が異なるが、予算と人は有限である。ここで「全部守る」という姿勢は、結果として「何も守れない」という事態を招く。川崎氏は、事業インパクト、リスクの大きさ、そして緊急度という3軸で守りの投資を並べ、経営層と同じテーブルで優先順位を合意することを推奨している。実際に、認証スコープの拡大を次期に回し、検知ルールの追加よりも誤検知の削減を優先するといった「勇気ある後回し」の決断こそが、組織のレジリエンスを高めるのだ。
以下に、守りの指標を経営の言葉に変換する際の対照表をまとめた。この構造を理解し、自社の文脈に合わせてカスタマイズすることが、エンジニアがキャリアを切り拓くための鍵となる。
| 守りの指標 | そのままの報告 | 経営の言葉への翻訳 |
|---|---|---|
| SLO・エラーバジェット | 可用性は99.9%です | あと◯回、攻めるリリースができます |
| 脆弱性対応 | ◯件パッチを適用しました | 漏えい時の損失◯円を回避しました |
| 監査・統制 | 指摘に対応しました | 大型案件の受注要件を維持しています |
| インシデント対応 | 障害を復旧しました | 機会損失を◯分×◯円に抑えました |
この翻訳作業は一度で終わるものではない。経営層の反応を見ながら、通じる言葉のパターンを掴むという試行錯誤が必要だ。守りの組織がボトルネックになるのではなく、オーナーシップを各職種へ分散させ、組織全体で守る文化を醸成すること。これこそが、守りを事業成長のエンジンに変えるための本質的な組織設計である。
エンジニアへの問い:守りを「資産」に変えられるか
最後に、我々エンジニア自身に突きつけられた問いについて考えたい。あなたは先月、自分のチームが回避したリスクを、経営層やPdMの言葉で一つでも説明できるだろうか?もし答えに窮するなら、それは技術者としてのキャリアにおいて、大きな機会損失をしている可能性がある。守りの成果を言語化できないエンジニアは、どれほど高度な技術スタックを扱っていても、ビジネスの意思決定プロセスからは疎外され続けるからだ。
川崎氏の提言は、単なる組織論ではない。これは、エンジニアが「技術の番人」から「事業の共創者」へと進化するための生存戦略である。守りの人材が育たない組織は、評価制度そのものが「回避した損失」を正当に評価できていないことが多い。貢献を「事業継続への寄与」として言語化し、評価・育成に組み込むことで初めて、守りの人材は定着し、組織の資産となる。Cloud Operator Days Tokyo 2025での受賞実績が示す通り、守りの成果を正しく言語化できれば、それは個人のキャリアにとっても強力な武器となる。
明日から取るべきアクションは明確だ。まずは「インシデントがなかった月の成果」を、経営の言葉で一行書いてみること。そして、守りのタスクを「事業インパクト×リスク」で並べ替え、経営層と同じテーブルで優先順位を議論すること。100%の達成を目指す必要はない。まずは小さな翻訳から始め、守りの境界を越えて事業を伸ばすための対話を始めるべきだ。あなたの組織の「守り」は、明日から事業成長のエンジンになり得るのか、それとも単なるコストセンターとして放置され続けるのか。その分かれ道は、今この瞬間のあなたの「翻訳」にかかっている。


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