虚空に消える工数と測定の罠
「AIを導入すれば業務が劇的に楽になる」という甘い言葉を信じ、現場に生成AIを投入したエンジニアやマネージャーが、今まさに直面しているのは『期待と現実の残酷な乖離』です。私の周囲でも、AI導入後に「残業が減った」という声はほとんど聞こえてきません。それどころか、AIの利用料という新たな変動費が積み上がり、現場の疲弊感はむしろ増しているようにさえ見えます。この現象の正体は、単なる「AIの性能不足」ではありません。我々が陥っているのは、業務効率化という名の『測定の罠』です。
多くの企業で行われている効率化の評価は、極めて場当たり的です。例えば、「年に一度の作業が15分短縮された」という成果を誇らしげに報告するケースがありますが、これは開発コストや導入の手間を考えれば誤差の範囲です。なぜこのような無意味な指標がまかり通るのか。それは、導入前のベースラインを測定せず、導入後に「何か測れるものはないか」と後付けで数字を探すという、手順の逆転が起きているからです。本来、工数の棚卸しはプロジェクトの最優先事項であるべきですが、多くの現場では「とりあえずAIを導入する」ことが目的化しており、その結果、浮いた時間の行き先が定義されないまま、別の業務が静かに流れ込んでくるという『工数のブラックホール』が発生しています。
経営層が求める「人数やコストの削減」と、現場が提示する「作業時間の削減」の間には、換算ルールという名の深い溝が存在します。時間削減は、そのままコスト削減に直結するわけではありません。人が減らず、残業も減らなければ、損益計算書には1円のインパクトも現れないのです。我々エンジニアは、AIを導入する際に「どの業務を、どれだけ削減し、その浮いた時間を何に充てるのか」という戦略を、経営層と握り合う必要があります。この合意なき導入は、ただの技術的な自己満足に過ぎません。
内製化の代償とボトルネックの移動
AIによる効率化の文脈でよく語られる「SaaSツールの解約」や「独自ツールの内製化」についても、シニアエンジニアの視点からは極めて危うい兆候に見えます。確かに、生成AIを使えばプロトタイプや社内ツールを爆速で構築できます。しかし、そのツールが法規制への追従や、複雑な周辺システムとの連携、厳格なセキュリティ要件を求められる場合、内製化は『保守という名の終わりのない泥沼』への入り口となります。SaaSであればベンダーが負担していたアップデートや障害対応のコストが、すべて自社のエンジニアの残業時間に転嫁されるのです。
さらに、AI導入によって新たな業務が爆発的に増えているという事実を無視してはなりません。利用ガイドラインの策定、ガードレールとログの整備、シャドーAIの監視、そして予測不能なトークン従量課金の管理。これらはAIを導入しなければ存在しなかった「AIのための業務」です。効率化の推進役であるはずの情報システム部門が、皮肉にもAI導入によって最も業務負荷が増大する部署になっているという現実は、多くの企業で見て見ぬふりをされています。ボトルネックは消えたのではなく、単に「作業」から「管理」へと移っただけなのです。
我々が明日から取るべき対策は明確です。それは、AI導入による「削減工数」と「増加工数」を厳密に可視化し、トータルでのROIを冷徹に計算することです。感情的な「AIによる効率化」という物語を捨て、エンジニアとして「このシステムを維持するために、誰が、どれだけの時間を支払うのか」という問いを突きつけなければなりません。もし、浮いた時間が単なる「別の作業」で埋め尽くされているのであれば、それは組織としてAIを使いこなしているのではなく、AIに組織が振り回されている証拠です。我々は、AIを導入したことで「何をやめるのか」を、もっと真剣に議論すべきではないでしょうか。


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